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  • 蒔絵の歴史の中で江戸時代の蒔絵は実に多様な時代であったと言えます。 江戸時代の前後を含めて年代をおって、その盛衰の概略を見てみましょう。

     安土・桃山時代
     前時代の安土・桃山時代には天下人の好みにより派手な蒔絵が好まれ、 城郭や寺社などの建築にまで豪壮華麗な蒔絵が施されました。 豊臣秀吉が好んだ当時の蒔絵は、高台寺蒔絵と呼ばれる生産性の高い手法が採用されました。

     江戸時代初期 豪華絢爛たる寛永文化
     桃山の雰囲気を受け継ぎ、さらに華麗さを増し、寛永頃までは豪華絢爛たる蒔絵が流行しました。 また江戸に徳川幕府が開かれ、江戸城本丸に御細工所も創設されました。京都中心であった蒔絵の文化は江戸でも花開くことになります。 三代将軍家光の息女、千代姫の婚礼調度「初音調度」 はその代表的なものとされています。 室町時代以来の蒔絵の棟梁であった幸阿弥家は 京都と江戸に拠点を持ち、総力を上げてこうした事業に取り組みました。
     また古満休意が 京都から江戸の幕府に招聘されたり、 五十嵐道甫が京都から加賀前田家に召抱えられて、 金澤で加賀蒔絵の礎を築くなど、 代々続く蒔絵の名家が登場しました。

     江戸時代中期 元禄文化と光琳蒔絵
     金をふんだんに使った豪奢な調度が作られ、常憲院時代蒔絵と呼ばれています。 京都では春正蒔絵の祖となる山本春正が活躍する一方、尾形光琳が鉛や螺鈿を併用した蒔絵作品の制作に関与し、 光琳蒔絵として漆工史上に革新的な息吹を吹き込みました。 その後も永田友治などによって光琳蒔絵を追慕した作品が多く作られました。

     印籠蒔絵師の台頭
     天和・元禄・宝永頃からは装身具であった印籠に技巧を凝らす専門の職工が登場しました。 高い技術を持った彼らは後に作品に銘を入れ、その名声を後世に残すようになっていきました。 梶川常巖が大坂から、 山田常嘉が京都から江戸に招聘されて 徳川幕府に召抱えられました。 また小川破笠飯塚桃葉古満休伯古満巨柳などが名工として知られています。 京都では山本春正塩見政誠が登場しました。

     江戸時代後期 大御所時代の隆盛
     十一代将軍徳川家斉が君臨した文化・文政期は、 将軍や家族の道具類、子女の婚礼調度に蒔絵が多く用いられ、 かつてないほどの隆盛を極めました。 一般的に、蒔絵の技術は明治時代に最高潮を迎えたと言われていますが、 実際にはこの時期にすべての技術が完成されました。 当時の江戸では古満寛哉原羊遊斎が、 京都では中大路茂栄田村壽秀などが蒔絵の名工として知られました。 彼らもまた印籠蒔絵師でした。

     江戸時代末期 蒔絵の衰退
     天保の改革により奢侈が戒められ、 蒔絵の隆盛にも翳りがみえはじめました。 世襲の御用蒔絵師の技術も低下し、使用材料も質が低下しました。 さらに横浜開港以後、世情の混乱から輸出向けの粗悪品も横行しました。 そうした中で、江戸では中山胡民柴田是真が、 京都では山本利兵衛佐野長寛などが名工として活躍しました。

     明治時代初期 明治維新後の衰退、博覧会時代
     徳川幕府と大名の消滅により、幸阿弥家をはじめとして その庇護を受けていた多くの御用蒔絵師は廃業・転業に追い込まれました。 その中で、柴田是真や その門人、池田泰真 のような町蒔絵師が影響を受けずに家業を存続しました。
     やがて新政府の方針により、工芸品は外貨獲得の有効な手段と位置づけられ、 中でも蒔絵は重要な輸出品目となりました。 蒔絵師も万国博覧会内国勧業博覧会向けの作品を作るようになります。 起立工商会社のような輸出商社もできました。 また中山胡民の門人、 小川松民は羊遊斎派の伝統である古器模造・ 修理に長じて博物局の仕事に関与しました。

     明治時代中期 展覧会時代
     明治23年(1890)に日本漆工会が設立されて、 蒔絵は古典に回帰し、展覧会時代へ移行します。 東京では池田泰真川之邊一朝、植松抱民などが、 京都では山本光利富田幸七などが名工として知られました。
    2007年 8月23日UP