大村 玉山(おおむら ぎょくざん) 生没年未詳
流派: 古満派
略歴:
文化・文政期に江戸で活躍した印籠蒔絵師です。
古満巨柳の門人で、
古満寛哉(初代)の兄弟子にあたります。
通称は繁蔵で、自得斎玉山または橘玉山、関暁斎などと号しました。
丹後田辺藩(後の舞鶴藩)藩主牧野家の御抱えとなり、
江戸海賊橋(後の海運橋)の上屋敷に住んだと伝えられます。
また松平定信の江戸下屋敷、浴恩園を描いた「浴恩園秋風庭蒔絵盃」を
谷文晁下絵で制作していることから、松平定信の仕事も請けていたことも
分かっています。これは谷文晁を通じてのことでしょう。
そして富岡八幡宮(神奈川県金沢)には文化7年(1811年)に奉納された
絵馬
が現存しています。没年未詳ですが、文政末に没したと推測されます。
その作風が独創的であるがゆえに、経歴が不明なわりに偽物が多数存在しています。
住居:
丹後田辺藩(後の舞鶴藩)藩主牧野家の御抱えとなり、
江戸海賊橋(後の海運橋)の上屋敷に住んだと伝えられます。
藩邸の長屋に工房兼住居を与えられたのでしょう。師の古満巨柳
の自宅とも近所です。
逸話:
大村玉山は非常に真面目な人だったようです。
ある時、玉山が同じ巨柳門下の後輩である坂内寛哉の家の前を通った時のことです。
寛哉は質商に養子に行きましたが、倒産させてしまい、
また蒔絵師をはじめていたところでした。
寛哉が「また再び蒔絵師に落ちたり」と言ったところ、
玉山は顔色を変えて「子の元の業に復す。かえって子の取るべき順路にあらずや」
となじったと云われています。玉山に関して唯一伝えられている逸話です。
坂内寛哉は後に師から古満の姓を与えられるほどの名工になり、
古満寛哉
となりました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・根津美術館(猿廻蒔絵印籠)
・東京富士美術館(節句飾蒔絵印籠)
・大阪市立美術館(仁王門蒔絵印籠・福禄寿蒔絵盃・江戸名所蒔絵三組盃)
・掛川市二の丸美術館(王母桃蒔絵根付)
・町田市立博物館(万寿亀蒔絵三組盃)
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2007年11月 1日UP 2017年 4月 1日更新 |
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