田村 壽秀(たむら ひさひで) 1757〜1833?
流派: 春正派か
略歴:
文化・文政期に京都で活躍した印籠蒔絵師です。
姓は田村または田邑、名は壽秀、字は長蘭、通称が重兵衛で、東溪また紫水亭とも号しました。
明治以来、長年にわたり苗字が「田付」と伝えられ、
京都の蒔絵の旧家、田付家の子孫であるかのように扱われてきましたが、
誤りであることを「印籠蒔絵師『田村壽秀』をめぐる問題」で証明しました。
自署にも「田村」と「田邑」が両方あります。
はじめ絵師になろうと四条派の松村呉春に画を学びましたが、
当時の京都には絵師が大勢いましたので、断念して印籠蒔絵師に転向し、
通称が重兵衛であったことから「印籠重」とも呼ばれました。
作風は研出蒔絵を得意としました。印籠コレクターでもあった、光格天皇・仁孝天皇のために印籠や棗などを制作しています。
住居:
常に裏長屋に住んで、転居を繰り返したと伝えられています。
文政13年版の『平安人物誌』によれば、当時は高倉御池南に住んでいたことがわかっています。
逸話:
性淡逸で世俗と交わることを好まず、金銭を得ればこれを懐に瓢然と家を出て花街に留連し、
ついには芸妓某を落籍して妻としました。
ほどなくその妻が亡くなると、居常不自由だが家累を脱し、
芸道のためにはかえって幸いと語ったそうです。まず、ひねくれ者の変人と言ってよいでしょう。名工にありがちなタイプです。
余技に狂歌をよくし、国学者で歌人の賀茂季鷹(1751〜1841)と親しかったと伝えられます。
また蒔絵の先人である塩見政誠の行状を慕ったとも伝えられています。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・東京国立博物館(百壽蒔絵印籠・
鮎蒔絵印籠)
・三井記念美術館(翁面蒔絵印籠)
・佐野美術館(芦鳩蒔絵印籠)
・徳川美術館(二見浦富士蒔絵印籠)
・國學院大學博物館(山水芦水鳥蒔絵印籠・秋海棠蒔絵印籠)
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2007年11月24日UP 2019年11月17日更新
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