幸阿弥 長孝
(こうあみ ながたか) 生没年未詳
流派: 幸阿弥派
家系:
幸阿弥の初代土岐四郎左衛門入道道長は、美濃の名族土岐美濃守持益次男とされています。
土岐道長は足利将軍家の8代義政に近侍し、
同朋衆の一人として蒔絵の技を以って仕え「幸阿弥」の称を賜り苗字としました。
以後、足利将軍家・豊臣家・徳川将軍家に仕えました。
初音調度(国宝・徳川美術館蔵)など代々徳川将軍家の調度製作を指揮し、
御蒔絵師棟梁別席として江戸時代を通して常に最高位に位置しました。
格式:
御細工頭支配の御蒔絵師棟梁別席で、代々の身分はほとんど武士に准じるものでした。
正月朔日には将軍に御目見もします。十二日、二十八日と継目名披露で熨斗目(のしめ)、
白帷子(しろかたびら)の着用を許され、部屋住の時に前髪付での御目見を許されています。
また遠方の御用の際には伝馬証文を下されました。
そして特に御用達の工商人の中でも別格だったことは、金座の後藤家と幸阿弥家だけ(慶安期に茶屋家が加えられたこともある)が大奥の台所まで入ることができたことです。
禄高は二百石十人扶持でしたが、三代将軍家光の時代に百石減知されたのを不服として、
百石をも辞して、十人扶持のみを受けたといわれています。
武鑑:
武鑑は大名・旗本・幕府役人の氏名・禄高・系図・家紋・屋敷所在地・重臣の氏名といった情報を記し、
民間の書肆が営利目的に刊行していた本です。実はこの武鑑には御用達町人も出ているのです。
宝暦12年(1762)刊行の「宝暦武鑑」を例に見てみましょう。「▲御蒔絵師并塗師」
のところを見れば、その筆頭に「十人ふち/皆川丁二丁め/□幸阿弥因幡」とあります。
□印は御細工所御用を表わしています。
略歴:
長孝は幸阿弥家の14代目で、「因幡」の国名を名乗ることを許されています。
諱は長孝でしたが、のちに長好と改めました。生没年や相続年などは全く資料がありません。
延享4年(1747)、9代将軍徳川家重の将軍就任祝賀
のため来日した、第10回朝鮮使節への返礼品の内、
鞍鐙六組・大卓二点・料紙硯箱を製作しました。
これらの完成見取図は「御細工所控」として国立国会図書館に所蔵されています。幸阿弥家は御蒔絵師棟梁別席でしたから、幕府の調度類を製作する最高責任者であり、
いろいろな意味で官僚的な仕事が多かったと考えられます。
一方で長孝は印籠の名工でもありました。天明元年(1781)に刊行された『装剣奇賞』印籠工名譜では
「幸阿弥因幡/同(江戸)皆川町住/是亦上手なり其作(円阿弥)丹後に等し」と書かれています。
また前平戸藩主松浦静山は『甲子夜話』の中で、「幸阿弥因幡は御召御印籠師、尤も御蒔絵師なり」と述べています。
「御召御印籠師」とは、将軍家が身につける印籠を作る、将軍家御用の印籠師という意味です。
屋敷:
宝永3年、12代、幸阿弥伊予長救のころから、神田皆川町1丁目に住みました。
場所は多少の移動があったようで、幕末の地図では名入りで確認できます。
水色で囲んだ所に「幸阿弥因幡」と書かれています。地図に名前が出ている唯一の蒔絵師です。
上の絵は『江戸名所図会』の「筋違八ツ小路」の図で、
地図で言えば左下の筋違御門から、上の八ツ小路を望んでいます。
左上の雲の上あたりが幸阿弥因幡の屋敷になります。
作品:
作品の大部分は、幕府の調度類の仕事でしたから、個銘の作品は非常に少ないのです。
基準とすべき作品は、『漆器図録』に所載の「小原女蒔絵盃」のみです。
ただ残念なことに現存が確認されていません(2009年5月に同手の作品を新たに確認しました)。
在銘作品は極めて少なく、国内の現存作品は、5点のみ、世界でも7点しかありません。
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2006年 2月 3日UP 2009年 6月21日更新 |
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