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  •  古満家(こまけ) 

     流派: 古満派

     家系:
    古満家は本国(先祖の出身)が山城国で、江戸時代初期の3代将軍徳川家光の治世、 寛永13年(1636)に初代古満休意が召抱えられたのがはじまりとされます。 しかし久能山東照宮が所蔵する徳川家康所用の薙刀拵の鞘に「古満又三郎安治」の作銘があるため、 徳川家との関係はもっと古くからあったと考えています。
     古満休意以降は12代古満清兵衛まで、代々御細工頭支配の御蒔絵師です。 古満家の系譜は詳細に伝えられていますが、 2代、4代の相続までの期間など、5代以前の経歴に関しては不自然な点が多く、 火災などによって記録が焼失し、再編集する際に誤って伝えられたと考えられます。

     格式:
    代々の当主は幕臣に准じる待遇で、以下のことが許されていました。
    ・年始に御扇子献上、御目見。
    ・五節句・八朔・歳暮共に御目見。
    ・御代替・将軍宣下の節に御扇子献上、御目見。
    ・御上棟の際に布衣を着用。
    ・旅御用の際に伝馬証文頂戴。
    ・旅行並に非常の際に帯刀。
    特に上棟式の際の布衣着用は、御用達職人としては異例の待遇であったと考えられます。 俸給はありませんでしたが、後に町屋敷を拝領しました。


     古満本家系図:

    古満系図













     各代略歴:
    ・古満 休意 初代 ?〜1681? 
    寛永13年(1636)、3代将軍・徳川家光の時代に幕府に召出されて御蒔絵師となり、 翌年に御目見しました。寛文3年(1663)に病没したとされますが、 延宝8年(1680)に厳有院廟に蒔絵をしているため、 天和元年(1681)没と考えられています。 重要文化財「柴垣蔦蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵) には、「古満休意作/同休伯安章極之(花押)」の銘があり、 三代休伯安章が初代休意の作と極めています。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・東京国立博物館(◎柴垣蔦蒔絵硯箱


    古満 休伯 安明 2代 ?〜1715
    通称が久蔵、号が休伯、諱が安明です。延宝8年(1680)に部屋住みで御目見し、 翌年相続しました。 元禄2年(1689)、幸阿弥長道と並んで御蒔絵師頭取となり、日光東照宮に蒔絵しました。 はじめ籠屋新道に住み、元禄16年(1703)、麹町四丁目に町屋敷を拝領しました。 正徳5年(1715)に没しました。

    作品を見る⇒


    ・古満 休伯 安章 3代 ?〜1732?
    通称が久蔵、号が休伯、諱が安章です。正徳4年(1714)に部屋住で御目見、 翌年に家督を相続しました。 享保17年(1732)に没したとされますが、 延享4年(1747)に将軍家から朝鮮国王へ贈る鞍鐙に蒔絵をしているので、宝暦まで存命の可能性が高いと考えられます。
    住友家伝来の「月梅蒔絵硯箱」が現存し、印籠の作品も残ります。


    古満 久蔵 安匡 4代 ?〜1758
    通称が久蔵、諱が安匡。宝暦4年(1755)に御目見して相続し、将軍家御用を勤めました。 宝暦8年(1758)に没したとされます。
     石仲子守範の刊本「画図百花鳥」に基づいた百花鳥印籠(美濃加納藩主永井家に伝来)など、 数百点の印籠が現存します。また「山水蒔絵硯箱」(静嘉堂文庫美術館蔵)をはじめ、 文房具や多くの調度類も製作しています。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・静嘉堂文庫美術館(山水蒔絵硯箱・月梅蒔絵印籠)

    作品を見る⇒


    古満 休伯 安巨 5代 ?〜1794
    装剣奇賞 通称が久蔵、号が休伯、諱が安巨です。 宝暦12年(1762)に家督を相続、田鶴宮様婚礼御用、若君様誕生道具御用、 壽賀宮様婚礼御用・日光東照宮修復御用を勤めています。
     また印籠の名工として『装剣奇賞』にも記載され、

    古満休伯 江戸中橋住 御印籠蒔繪師 二代目久蔵安巨トイヘリ 是又梶川と等しき名人なり。 元祖より當代に至るまで、家聲を減せず。名家なるかな

    とあります。実際多くの印籠が現存しています。
     寛政6年(1794)に没し、 養子の勘助が跡を継ぎました。 また門人に義弟の古満巨柳を出したことでも知られています。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・東京国立博物館(波燕蒔絵印籠
    ・静嘉堂文庫美術館(竹蒔絵印籠・稲束宝尽蒔絵印籠)
    ・東京富士美術館(鶴蒔絵印籠紅葉幔幕蒔絵印籠
    ・大阪市立美術館(薄鹿蒔絵印籠)
    ・日光うるし博物館(御簾蜻蛉蒔絵印籠)

    作品を見る⇒


    ・古満 勘助 6代 ?〜1795
    5代休伯に男子がなかったため、天明2年(1782)、養子となり相続しました。 種姫君様御入輿道具・御台様婚礼道具・淑姫君様誕生御用・瓊岸院様御誕生御用・ 彰君様婚礼御用・鳳凰丸修復御用・若君様誕生道具・鳳凰丸水卸御手入道具・ 御伝馬船新規道具共一式御用・御台様臨時道具・裕宮様下向道具を勤め、 寛政3年(1793)、塗師蒔絵定式月番となりました。寛政7年(1797)に没しました。

    ・古満 六右衛門 7代 ?〜1803
    勘助の子で寛政7年(1797)、父の死により相続しました。 御台様御産道具・日光修復御用・犀鶲丸修復御用・脩君御方下向御用・ 淑姫君様御入輿御用・御台様御道具御用を勤めました。享和3年(1803)に没しました。

    ・古満 休意 8代 ?〜1816
    幼名清右衛門、のち久蔵。享和3年(1803)、 養父六右衛門の死により相続し、御目見しました。 友松君御誕生御用・日光修復塗師方御用・峯姫君様御引移御用を勤めました。 文化8年(1811)剃髪して休意と号しました。同12年(1815)に隠居し、 同13年(1816)に没しました。

    ・古満 源蔵 9代 ?〜1842
    文化12年(1815)、養父の隠居により相続し、 浅姫君様御引移御用・御霊屋向御位牌所塗師御用・紅葉山御宮向修復塗師方御用・ 西丸新規道具仕立御用・泰姫君様御引移御用等を勤めました。 天保5年(1834)に剃髪して源亀と改名しました。同11年(1840)隠居し、 同13年(1842)に没しました。

    ・古満 清兵衛 10代 ?〜1858
    天保11年(1840)、父の隠居により相続しました。 東明宮御方下向御道具・姫君様御入輿道具・西丸御小納戸御慰御用・ 御本丸表新規御道具仕立御用・睦宮御下向御用を勤めました。 弘化4年(1847)に隠居し、安政5年(1858)に没しました。

    ・古満 清兵衛 11代 ?〜?
    弘化4年(1847)、養父の隠居により相続しました。 精姫君様御引移御道具・末姫君様焼失御道具・壽明君御方下向御入輿御用・ 線姫君様御引移御用・西丸奥表御道具新規仕立・美賀君御下向道具御用・ 本壽院様御道具御用・晴光院様御住居御焼失道具御用・篤君御方婚礼御用・ 本壽院様二丸へ御引移御用・和宮様御待請御道具御用・和宮様御婚礼御道具御用・ 御本丸二丸奥表御道具新規仕立御用を勤めました。 慶応元年(1865)、病気に付き隠居しました。

    ・古満 清兵衛 12代 1841〜?
    天保12年(1841)、相模国鎌倉郡大船村・甘粕小左衛門の次男に生まれました。 幼名が辰吉で、古満清兵衛の養子となり、慶応元年(1865)、 養父の隠居により相続しました。同2年(1866)御納戸頭支配となりました。

     武鑑:
    武鑑は大名・旗本・幕府役人の氏名・禄高・系図・家紋・屋敷所在地・重臣の氏名といった情報を記し、 民間の書肆が営利目的に刊行していた本です。実はこの武鑑には御用達町人も出ているのです。 5代休伯が家督を相続した、宝暦12年(1762)刊行の「宝暦武鑑」を例に見てみましょう。「▲御蒔絵師并塗師」 のところを見れば、「上槙丁/□古満久蔵」とありますが、俸禄は無足なので書かれていません。 □印は御細工所御用を表わしています。











    江戸地図  屋敷:
    元禄16年(1703)、2代休伯安明の時に麹町4丁目に坪数120坪の町屋敷を拝領し、 以後、明治維新まで続きました。職人町からは遠いので、おそらくこの拝領町屋敷に住むことは一度もなかったと考えられます。 武鑑には「上槙丁」とあって、そこが住居兼工房であったようです。 『装剣奇賞』に「中橋住」とあるのは、 当時は工房が中橋にあったのか、あるいは「上槙町」を指すとも考えられます。
     11代古満清兵衛については「本町より十軒棚へ出る角」が旧宅という文献があり、 日本橋本町3丁目に住んでいたようです。
     12代古満清兵衛については、文久2年(1862)には本所林町2丁目に住んでいました。 本所林町3丁目3番地に住んでいたという記録もあり、 幕末期には実際に本所林町に住んでいたのは確実と考えられます。

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    2006年9月 1日UP
    2023年6月30日更新