これらの条々にもし一つでも違犯しましたら
梵天、帝釈、四大天王、日本国中六十余州大小神祇、殊に伊豆箱根両所権現、三嶋大明神、
八幡大菩薩、天満大自在天神、部類眷属神罰冥罰を、それぞれから受けなければならないものです。
よってこのように起請致します。
某年月日
何某 血判
血判が終わると列座の大目付が一見して表御右筆に渡します。
すると表御右筆はこれを受け取ると傍らに投げて領収するのが仕来りでした。
それは本当に粗略で武士が血判したものに対する扱い
とは思えないようなものでしたが、長年の仕来りで誰も不思議がる人はいなかったようです。
御蒔絵師棟梁:
御蒔絵師棟梁は徳川将軍家御用達の蒔絵師の棟梁です。
御蒔絵師棟梁別席は代々幸阿弥家の当主であり、御師範役でもありました。
御蒔絵師並塗師:
御蒔絵師並塗師は徳川将軍家御用達の蒔絵師と塗師です。
江戸時代を通じて十数家があり変動がありました。
一例として宝暦12年(1762)の武鑑を示しました。
□幸阿弥因幡、
□栗本駿河、□菱田丹波、□太田播磨、
□奈良土佐、□榎本遠江、□栗本源左衛門、□鈴木弥治兵衛、
□円阿弥周防、□古満久蔵、
□服部清右衛門、□大藤長十郎、□小林甚兵衛、□野村四郎右衛門
の名があり、俸禄と住居も記されています。また□印は凡例で御細工所御用達を表わしています。
蒔絵仕手頭:
仕手頭は、幕府御用達の各御蒔絵師に出入りして仕事の配分をする者で、
御細工所や御小屋での作業では多くの職人を実際に差配し、監督しました。
中には数軒の御蒔絵師に出入りする者もありました。下に幕末期の一覧表を示しました。
御小屋:
御小屋(あるいは御小屋場、御用小屋場ともいう)は徳川幕府の仮設の工場・材料置場です。これは漆工の工場に限りません。
例えば、江戸城の修築に使う石材・木材など、普請・作事の際の材料置場や加工場も御小屋です。
ここで特に述べる御小屋は、幕府の婚礼調度・城内の調度を製作するための工場です。
とりわけ本丸御殿炎上後は、城内に御細工所がありませんので、
仮設の御小屋を設置する必要がありました。
御小屋が設置されたのは、西丸下、竹橋門内・呉服橋門内・神田橋外・
一橋外護持院ヶ原などに類焼を防ぐために設けられていた広大な火除地=「明地」です。
こうした空き地の四方を竹柵で囲み、そこに数棟の工場を設け、
江戸中の名工を集めて調度類を作らせました。
御小屋での作業が始まると御細工方の役人もそこに泊まり込むことになります。
その際には「野扶持」という特別手当てが支給されました。
調度類製作:
徳川将軍家とその子女の婚礼調度の製作には、御細工所の御用達職人のみならず、
江戸中の蒔絵師・塗師・木地師が御小屋に集められました。
御蒔絵師に出入りの仕手頭が指揮をして、大量の調度類が2〜3年をかけて、
早朝から日没まで毎日製作にあたりました。
また期日が迫っている場合は、1年ほどで昼夜を問わず作業が行われました。
ここでは異なる流派の職人が1箇所で並んで仕事をするため、
お互いに競争心をもって仕事に臨み、寸分の隙もない仕事をしました。
また役人の監督も厳しく、係役人は御小屋建設と同時に詰泊となり、
御細工所同心の見廻りはもちろん、勘定奉行・御目付・若年寄の見廻りもありました。
その他のこのような、江戸中の職人達を集めた事業としては、
日光東照宮をはじめ、芝・上野・久能山・世良田などにあった幕府直轄の東照宮の修復御用がありました。
逸話:
御細工所や御小屋での大規模な作業では、一時的に江戸中の名もない職人がかき集められました。
蒔絵師だけでも百人ほどが集められたようです。
そうした職人達に身分の上下はなく、またほとんどの職人は苗字もなく、通称しかありませんでした。
しかし職人達の間では、通称ですら呼ばず、あだ名で呼び合うのが慣例でした。
「狸さん(狸に似ている)」・「コンコンさん(狐に似ている)」・
「道益さん(芝居の先代萩に登場する医者の道益に似ている)=高梨桃壽」
「つん金さん(つんぼの金次郎さん)=昇龍斎光玉」・「重傑さん(傑出した重次郎さん)=梶山明細」などです。
ある時、緊急の用で狸さんがコンコンさんが尋ねようとした時など大変です。近所で棲みかを聞いて廻っても
当然知るわけもなく、とうとうたどり着けませんでした。
あまりにも、お互いを知らずに仕事をするのも不都合なので、
ある時、柳橋の料亭「大のし」で親睦会を開きました。
そして毎年やってはどうかといことになり、その会の名前を「天神講」としました。
それは「蒔絵を書くには筆で書き、その筆で書くことの先祖は天神様だから」
という訳のわからぬ理由だったそうです。
当時の蒔絵師が、仕事が一流でもいかに無学であったかを示す逸話として伝えられました。