山本 春正
(やまもと しゅんしょう)
家系:
初代の山本春正は、源義光の孫、山本義定の後裔とされる山本俊正の子でした。
京都で代々の蒔絵師となり、後に春正を姓とし、研出蒔絵を得意としていました。
後世、その作品は「春正蒔絵」と呼ばれています。5代春正正令の時に天明の京都大火に遭い、
名古屋に移住してきました。名古屋移住後の作品の多くは茶器や膳椀類がほとんどとなりました。
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各代履歴:
・春正 正令 5代 1734〜1803
享保19年(1734)12月29日に4代春継の次男に生まれました。幼名が勝之丞で、後に次郎兵衛を称しました。
姓を再び春正としました。
天明8年(1788)の京都大火で類焼し、翌寛政元年正月に尾張名古屋へ移住しました。
享和3年(1803)5月に70歳で没し、名古屋門前町の極楽寺に葬られました。
春正正令在銘共箱の「光琳松蒔絵盃」が現存しており、箱の黒印は「正令」です。
この印章は名古屋に移った春正家がその後代々使用しました。
・春正 正之(6代) 1774〜1831
安永3年(1774)8月20日、春正5代正令の子として生まれました。
幼名が与三治郎で、後に通称を又四郎としました。
尾張藩主に拝謁し、御小納戸・御具足方の御用も勤めました。
文政8年(1825)に剃髪し、敬通と号しました。天保2年(1831)2月17日に58歳で没し、名古屋門前町の極楽寺に葬られました。
文政3年(1820)製作の「月松竹梅蒔絵大盃」に「挙白堂春正描」と銘書しており、
初代山本春正の著書『挙白集』にちなんで、挙白堂と称していたことが分かっています。
他にも「挙白堂/春正(正令)」と箱書した「菊桐紋蒔絵棗」も現存しています。
・春正 正賢(別家) 1782〜?
春正5代正令の次男として天明2年(1782)に生まれました。
幼名が熊之助、長じて熊治と称しました。
文化11年(1814)に伊勢山田に移住し、天保2年(1831)、尾張井田村長福寺で剃髪しました。
正賢は「初代春正肖像」・「春正正令肖像」の筆者として知られています。
「初代春正肖像」は、正賢が伊勢国津で伊藤仁斎の賛がある肖像画
を発見して模写したものです。
「春正正令肖像」は、正賢が実父正令のありし日の姿を描き、姉の春が賛をしています。
蒔絵師としての実態はこれまで全く分かっていませんでした。
しかし在銘の「渡舟蒔絵盃」を発見し、
箱書には「春正」の墨書に「正令」印を捺し、正之の筆跡とも似ていることから、
正令、正之と共に実作にあたり、
伊勢山田に移住後は名古屋春正家から別家して実作していたと考えています。
・山本(春正) 正徳(7代) 1806〜1871
文化3年(1806)、春正6代正之の長男に生まれました。幼名吉次郎、通称を實太郎とし、一庵と号しました。
安政5年(1858)53歳で剃髪し、ト斎とも号しました。
老年におよび、弟の正周に家督を譲り、明治4年(1871)に66歳で没しました。
正徳の代で姓を山本に改め、家紋も丸に木瓜紋から三つ木瓜紋に改めました。
作品の多くは食膳類です。ほとんどの作品は箱書のみで、独特な癖のある筆跡です。
印は5代正令以来の「正令」印を使っていますが、摩滅によるものか四隅の印付きが悪くなっています。
ほとんどの作品には作銘がありませんが、晩年の作品に「ト斎」銘を添えたものが稀にあります。
また春正七世であることを非常に意識し、銘書や印に明記したものもあります。
・山本(春正) 正周(8代)
文化13年10月17日、6代正之の次男に生まれました。
幼名清五郎で、後に通称を東三郎と改めました。安政5年(1858)に兄正徳(七代)から家督を相続しました。
明治10年(1877)3月6日に没し、仁道保壽居士と諡され、名古屋門前町極楽寺に葬られました。
住居:
5代正令の時には二条通高倉西入と油小路押小路下る町に店があり、
二条通東洞院東入所に住んでいました。京都の大火により尾張名古屋に移住しました。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・東京国立博物館(撫子蒔絵硯箱・唐花唐草蒔絵盃台・芦雁蒔絵硯蓋)
・徳川美術館(溜塗鉋目折敷・爪紅二枚足折敷・利休形会席具)
・名古屋市博物館(雲鶴蒔絵吸物椀・武蔵野蒔絵吸物椀)
・野村美術館(武蔵野蒔絵吸物椀)
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