原 羊遊斎(はら ようゆうさい) 1769〜1845
流派: 羊遊斎派
略歴:
明和6年(1769)、江戸に生まれました。
通称は久米次郎で、のちに羊遊斎・更山と号としています。
デビューまでの経歴は杳として知れません。若い頃は放蕩者でしたが、
いつの頃にか、芝に住んでいた蒔絵師の鶴下遊斎に蒔絵を学びました。
20代後半には古河藩主・土井家の御用蒔絵師となっており、
のちに二人扶持を給されています。
文化初年から酒井抱一の下絵により江戸琳派の印籠・櫛類をその工房で作るようになり、
当時江戸で古満寛哉とともに並び称されました。
また茶人で松江藩主の松平不昧に引き立てられ、
好み物の茶道具を製作しました。
その他にも、一橋徳川家、熊本藩主細川家、福岡藩主黒田家、佐賀藩主鍋島家、
彦根藩主井伊家、平戸藩主松浦家など有力諸大名の御用も請けていました。
一方で谷文晁・大田南畝・亀田鵬斎・市川団十郎・中井敬義・中村仏庵
など文化人との交流も伝えられています。文化14年(1817)、丹後国田辺藩主・牧野以成の命により、
入国150年記念の「梅蒔絵大盃」を谷文晁下絵、中井敬義書で製作したものなどはその好例です。
神田下駄新道に住んでいて、根岸の寮は抱一の雨華庵と庭続きであったといわれています。
弘化2年(1845)12月24日に没し、講安寺に葬られ、「巍岱院照月更山信士」と諡されました。
墓石は現在巣鴨の講安寺墓地にあり、墓石には自ら創作した「丸に羊字紋」が入っています。
門人
中山胡民・田邊平治郎・廣三・昇龍斎光玉
・岩崎交玉
風貌
49歳で剃髪し、自ら「神田の和尚」と称しました。大柄の男だったと伝えられ、
剃髪した時に谷文晁が描いた肖像画の写しが江戸東京博物館に所蔵されていますが、ふくよかな顔立で、目じりが下がり、
ちょっと気難しそうでいて、温和な風貌です。(肖像は『漆と工芸』400号(1934年)より転載しています。)
住居
神田下駄新道(鍛冶町2丁目)に住んでいたことは、49歳の剃髪壽画像にもあります。
しかし言い伝えによれば神田藤十郎新道(紺屋町2丁目代地)であったとも言われています。
晩年に下駄新道から藤十郎新道に転居したか、藤十郎新道が工房であったか、どちらかでしょう。
地図の通り、この2箇所は同一ではありません。
逸話
羊遊斎は自ら蒔絵することはほとんどなく、腕の良い工房の職人に仕事をさせていました。
職人たちを厚く遇し、半日だけ自分の言うことを聞いて、仕事をすれば良いと言っていました。
つまり倍の工賃を払っていたということでしょう。
食事時には給仕をつけるなど、たいそう厚い待遇をしたようです。
羊遊斎本人は、名士との交遊に忙しく、蒔絵の仕事はほとんどせず、
足が悪いために、駕籠で得意先を回っていたといわれています。
作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
・東京国立博物館(芒桐紋蒔絵印籠・椿蒔絵櫛・萩蒔絵櫛・秋草虫蒔絵櫛・蔓梅擬蒔絵櫛・流水蒔絵櫛・亀沢瀉蒔絵櫛・松葉蒔絵櫛・菫蒔絵櫛・葛蒔絵笄)
・京都国立博物館(木瓜紋蒔絵櫛)
・東京藝術大学美術館(三福蒔絵盃
・竹蒔絵笛筒)
・江戸東京博物館(◎蔓梅擬目白蒔絵軸盆・松梅蒔絵盃)
・静嘉堂文庫美術館(片輪車蒔絵螺鈿棗・菊蒔絵大棗・桐紋蒔絵茶杓・
雪華文蒔絵印籠・秋草虫蒔絵印籠・菊蒔絵根付)
・永青文庫(枝椿蒔絵詠草箱・雪華文蒔絵印籠・紫陽花蒔絵印籠)
・三井記念美術館(春秋野蒔絵引戸)
・泉屋博古館東京(椿蒔絵棗)
・サントリー美術館(蜻蛉沢瀉蒔絵櫛)
・たばこと塩の博物館(時雨菊蒔絵煙草盆・菫蒔絵煙管)
・出光美術館(草木蒔絵葵盆)
・澤の井櫛かんざし美術館(渦巻文蒔絵櫛・藪柑子蒔絵櫛・薄蝶蒔絵櫛・菊紋螺鈿蒔絵笄・藪柑子若松蒔絵印籠・椿蒔絵印籠)
・MOA美術館(片輪車蒔絵螺鈿棗)
・掛川市二の丸美術館(芙蓉蒔絵印籠)
・桑山美術館(菊寿蒔絵香合)
・逸翁美術館(梅花蒔絵棗)
・野村美術館(蕨蒔絵会席膳)
・滴翠美術館(秋草虫蒔絵茶筅筒)
・大阪市立美術館(春草蒔絵印籠・花丸文蒔絵雲龍鼈甲彫鞘印籠・鶴宝船蒔絵盃)
・湯木美術館(菊蒔絵大棗)
・北村美術館(菊蒔絵大棗)
・香雪美術館(菊蒔絵大棗・四季草花蒔絵旅箪笥)
・田部美術館(菊蒔絵大棗
)
・古河歴史博物館(◎雪華文蒔絵印籠)
・手銭記念館(秋草蒔絵文箱)
・鍋島報效会徴古館(都鳥蒔絵琴柱箱・鼠嫁入蒔絵盃
・駒蒔絵茶碗台蓋)
↑先頭に戻る 作品を見る⇒
2005年11月22日UP 2016年12月16日更新 |
|