• TOP
  • はじめに
  • 蒔絵概略史
  • 蒔絵師伝記 江戸
  • 蒔絵師伝記 名古屋
  • 蒔絵師伝記 京都
  • 作品展示室
  • 蒔絵用語辞典
  • 保存と修復
  • 印籠の装い
  • 発表論文
  • プロフィール
  • 研究日誌
  • リンク集
  • メール
  • 永田家梅鉢  永田 友治 (ながた ゆうじ) 生没年未詳

     流派: 京蒔絵・琳派

     略歴:
    永田友治は江戸中期の京都で活躍したとされる琳派の蒔絵師です。 尾形光琳とは血縁も師弟関係もありませんが、 光琳の作品とその作風を慕いました。 経歴と言えるようなことは、ほとんど何も判っていません。

     活躍年代すら明らかにされていませんが、 宝永2年(1705)刊行の錦文流『棠大門屋敷』や、正徳5年(1715)刊行の江島其磧『世間子息気質』に 記述があることから、宝永・正徳には大成していたことは確かです。

    たとう印 箱書  光琳が使った「方祝」印を模した印を、デザインの一部のように使用しています。 また光琳が「青々」と号したことにちなんで、「青々子」と号しました。
     光琳風の画風の作品を多く残しました。 光琳が用いた鉛板、錫板、螺鈿以外にも新たな技法を取り入れました。 特に錫粉を使った独特の高上げは友治上げと呼ばれ、 現在でも錫粉のことは「ユウジ(友治)粉」と呼ばれます。 それが永田友治に由来することを知る人は少ないようです。
     その他にも、錫梨子地や黄緑色の青漆、黄漆などの色漆を使ったり、 地塗に刷毛目塗を使うなど、新しいことを始めています。書風も画風も作風も極めて個性的です。
     延享2年(1745)には次の代の永田小兵衛が名をなしているので、その頃には没していたと考えられます。
     代表作品としては京都国立博物館蔵の 「槙鹿蒔絵料紙硯箱があります。
     また文献に「盃蒔絵師」、「友治盃」と書かれるように、 盃の作品や、膳・椀、硯蓋などの飲食具が比較的多く現存しています。 琳派以外の作品も多くみられます。あるいは漆器問屋、 工房経営者のような人だったのかもしれません。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・東京国立博物館( 水鳥蒔絵螺鈿盃盃台
    ・京都国立博物館( 槙鹿蒔絵料紙箱・硯箱 福禄壽蒔絵三組盃 牡丹蒔絵梅椀・双蝶蒔絵盃台)
    ・東京藝術大学大学美術館(双蝶蒔絵香合、 双蝶蒔絵螺鈿乱箱
    ・サントリー美術館(亀貝尽蒔絵盃・鴛鴦波蒔絵盃台)
    ・京都市立藝術大学美術館(蟹蒔絵硯蓋・鳥居蒔絵三組盃)
    ・逸翁美術館(鶴亀蒔絵硯箱)
    ・MIHO MUSEUM(椿蒔絵梅椀)
    ・岡田美術館(八橋蒔絵螺鈿乱箱)

    ↑先頭に戻る

    作品を見る⇒


     永田 小兵衛 (ながた こへえ) 生没年未詳

     流派: 京蒔絵・琳派

     略歴:
    永田小兵衛は、永田友治の子弟あるいは門人の可能性がありますが、血縁関係は分かっていません。 永田友治の製作に関わっていた時期があり、 外箱の製作、管理方法や、意匠の一部、また「友治」印も継承しました。
     はじめ「塗師/永田友治」、その後「御蒔絵塗師/永田友治」と署名しました。 「友治」を号していることから、2代永田友治と呼んでも良いかもしれません。 つまり「永田小兵衛友治」です。
     これは少しおもしろいことです。宝暦9年(1759)の『蒔絵大全』に 「塩見政誠同二代の塩見小兵衛友治等皆描金を世々にして当世迄其名あり」 とありますが、これは著者の勘違いで、塩見政誠ではなく通称が同じ小兵衛であった永田友治であった可能性があります。 読み替えると 「永田友治同二代の永田小兵衛友治等皆描金を世々にして当世迄其名あり」となり、 当時の人も納得の文章になります。 塩見友治という確実な作銘の作品はおろか、『蒔絵大全』以外の文献も現在まで全く見つかっていないからです。
     永田友治が用いた「青々子」の号を継がなかった代わりに、「金書子」の別号も用いました。
     延享2年(1745)『京羽二重大全』の「諸職名匠」の蒔絵師として、 「畑山ノ辻子今出川上ル町 永田小兵衛」と挙げられているのが、文献上の初出です。
     近年、宝暦13年(1763)に後桜町天皇即位の調度製作の肝煎に任じられたことが 岩井胤夫氏によって明らかにされました(「土山家文書」)。 またこれより遡る寛延3年(1750)の箱識があり、 「御蒔絵塗師/永田友治」と署名のある「朱漆塗茶器」 が発見されたことから、その頃までには禁裏の御用達になっていたことも明らかになりました。
     『京羽二重大全』には天明4年(1784)版まで掲載されているので、 その後、引退したか、没したと考えられます。家伝によれば安永には禁裏蒔絵常職になっていたようです。
     作品は琳派風のものも若干ありますが、それ以外のものも多くあり、 比較的スタンダードな京蒔絵といえます。 次の代が永田文五郎になります。

     住居:
    箱書  現存する菓子盆の紙袋や畳紙の商標に「京たこやくし通/御幸町西へ入ル町」の住所が記された物があり、 京都蛸薬師通御幸町西入町に店舗があったことが分かっています。 別の商標には、それに加えて左側に「只今大坂伏見町居仕候」あるいは「只今心斎橋瓦町北へ入ル處ニ居候」と刷ったものもあり、大坂に居住した時期もあったようです。
     『京羽二重大全』には、「畑山ノ辻子今出川上ル町」あるいは「上京畠山町」の住所も記されています。 蛸薬師通御幸町西入町は店舗で大坂伏見町・大坂瓦町に住んだ時期もあり、 また畠山町は御蒔絵師としての細工場であったとも考えられます。

     作品を所蔵する国内の美術館・博物館:
    ・京都市立藝術大学美術館(鶏頭蒔絵盃台・夏越蒔絵盃)

    ↑先頭に戻る

    作品を見る⇒


     永田 文五郎 (ながた ぶんごろう) 生没年未詳

     流派: 京蒔絵

     略歴:
    永田小兵衛の子と考えられます。文化8年(1811)『京羽二重大全』の 「禁裏御用達諸工」に「御蒔絵塗師 上京畠山町 永田文五郎」として挙げられています。 慶応元年(1865)に没していますので、同名で2代存在した可能性もあります。 慶応元年に没した永田文五郎の跡は、外孫の永田習水が継ぎました。

     住居:
     『京羽二重大全』から、永田小兵衛と同じく京都の「畑山ノ辻子今出川上ル町」すなわち「上京畠山町」 に住んでいたことが分かっています。

    ↑先頭に戻る

    2011年 1月15日UP
    2021年 9月20日更新