古満 寛哉 初代(こま かんさい) 1767〜1835
武蔵野蒔絵棗
(むさしのまきえなつめ)
古満寛哉(初代)作
製作年代 :
江戸時代後期 文化10年(1813)頃
法量 :
径66mm×高67mm
鑑賞 :
朱漆塗地に満月と薄で武蔵野を表した棗です。
狩野伊川院栄信(1775〜1828)の画に基づいたことが銘文に記されています。
意匠 :
棗の肩に満月を配し、直立する薄を全体に表した珍しい意匠で、狩野伊川院栄信の画に基づいています。
形状 :
木地挽物による印籠蓋造の中棗です。底を碁笥底とせず、ゆるく凹ませているところが普通の棗とは異なります。
技法 :
・挽物の素地に朱漆塗とし、満月は高上げ上研出として、中の方を蒔き暈して潤みとしています。
薄は焼金粉と青金粉の付描きで表し、薄の穂には銀粉を交えています。
薄の露には丸い平目粉を選んで、貼り付けています。
・内側は金梨子地で、立上りは黒蝋色塗地に研出蒔絵で観世水を表しています。
・底部は朱漆のままですが、銘文がすれないよう、ゆるく凹ましてあります。
銘文 :
底部に「伊川法眼筆(花押)/寛哉寫」と蒔絵銘があります。
狩野栄信が法眼であった期間と寛哉の銘文の変遷を考慮すると
文化10年(1813)前後の作品と考えられます。
附属品 :
梅唐草緞子の仕覆が附属しています。
外箱 :
桐製桟蓋造の桐箱は黒漆塗とし、蓋裏の紙には「むさしの/寛哉作/(花押)」との墨書があります。
狩野栄信 :
徳川将軍家の奥絵師を務める木挽町狩野家の養川院惟信の子として江戸に生まれました。
部屋住みだった11歳から務め始め、享和2年(1802年)に法眼となり、文化5年(1808年)父の死により相続しました。
同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双を制作しています。
文化13年(1816年)に法印に進んで伊川院と号し、また玄賞斎とも号しました。
茶道もよくし茶人大名の松平不昧にも引き立てられたことでも知られています。文政11年(1828)に没しました。
展観履歴 :
2022 国立能楽堂資料展示室 「秋の風 能楽と日本美術」
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稲穂蒔絵印籠 (いなほまきえいんろう)
古満寛哉(初代)作
製作年代 : 江戸時代後期
天保4年(1833)
法量 :
縦86mm×横51mm×厚20mm
鑑賞 :
風になびく稲穂を研出蒔絵で表現した作品です。簡明な表現でありながら、古満寛哉晩年の傑作です。
緒締は金工、根付は象牙金工の月雲雁を取り合わせています。
意匠 :
表裏ともに、たわわに実り、風にそよぐ稲穂を表しています。根付と併せて「稲穂に雁」としています。
形状 :
小判形四段の印籠です。幕末の小判形の印籠と異なり、肩が張った独特な形となっています。
技法 :
焼金粉溜地に総研出蒔絵としています。
上方の稲穂は青金粉、下方は焼金粉で、稲の実は引掻きとしています。
一見、簡単な作品に見えますが、
引掻きとしながらしかも研出蒔絵とした2倍のリスクを乗り越えた作品で、
寛哉の自信の程が伺えます。重なる稲穂を
表現した技術は、極めて高度です。
また稲の葉の鋭さ、蒔き暈しの巧妙さなど非凡な才能が感じられます。
印籠段内部は豪華な刑部梨子地です。
作銘 :
底部に大字で「行年六十七/坦哉造」との自身銘があります。
67歳は、天保4年(1833)にあたります。
寛哉は剃髪して坦哉または坦叟と号しましたが、
坦哉銘は少なく、今のところ他に2点しか確認されていません。
伝来 :
長らくイギリスにあり、1992年に日本に里帰りしました。
展観履歴 :
1999 五島美術館「羊遊斎」展
2003 京都文化博物館・福島県立博物館「男も女も装身具」展
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
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古満 寛哉 2代 (こま かんさい) 1797〜1857
十二支蒔絵印籠 (じゅうにしまきえいんろう)
古満寛哉(2代)作
製作年代 : 江戸時代末期
天保〜安政頃(circ.1850)
法量 :
縦81mm×横59mm×厚20mm
鑑賞 :
2代古満寛哉の印籠の最高傑作です。金工象嵌
と緻密な高蒔絵で十二支を表現した作品です。
根付には古満安匡作「龍蒔絵根付」、緒締は古渡珊瑚を取り合わせています。
意匠 :
十二支の意匠で、表に子・丑・寅・卯・辰・巳を、裏に午・未・申・酉・戌・亥を振り分けています。
未は羊でなく、山羊が描かれています。この時代には、しばしばあることです。「十二支蒔絵印籠」
は父の初代古満寛哉が作っており、
東京藝術大学大学美術館
に所蔵されています。
恐らく下絵が残っていたのでしょう。
牛の構図は初代寛哉のものと全く同じです。
他の動物は全て変えています。
形状 :
昔形四段の印籠で、標準的な大きさです。
技法 :
・完璧なまでに研ぎ上げられた金粉溜地に、金工象嵌と高蒔絵です。
蒔絵がすべて出来上がってから象嵌する部分を形に沿って彫り込み、象嵌しています。
鼠は銀容彫に金象嵌、虎は朧銀容彫に金象嵌、兔は金容彫、蛇は朧銀容彫に金象嵌、
猿は朧銀地容彫素銅象嵌、鶏は赤銅容彫に金象嵌、犬は赤銅容彫に金象嵌
猪は朧銀容彫に金象嵌です。無銘ですが装剣金工師の巧手の手になるものでしょう。
・龍は高蒔絵で鱗を一枚一枚立体的に形作っています。馬は青金高蒔絵で、山羊は高蒔絵で毛並を毛彫りしています。
この作品の見所は赤銅粉高蒔絵の牛です。他の多くが金工を象嵌したものであるため、
一見赤銅容彫象嵌に見えますが、実は赤銅粉の高蒔絵に
毛並みを片切彫で表わしています。
特に牛の尾の表現は蒔絵筆によるものですが、人間業とは思えないほど見事です。
また全ての高蒔絵は、高上げの肉取りが非常に優れています。
・内部は豪奢な刑部梨子地に仕立てられています。
作銘 :
蓋裏に「古満寛哉(花押)」と蒔絵銘があります。
2代寛哉の印籠の上作は、必ずこうした蓋裏の隠し銘であり、
最上作では内部を豪奢な刑部梨子地にして、
蓋裏に蒔絵銘として、さらに花押も添えています。
伝来 :
20世紀初頭のアメリカの印籠コレクター、
ウィリアム・デュ・ポンド氏の旧蔵品で、1995年に日本に里帰りしました。
展観履歴 :
1999 五島美術館「羊遊斎」展
2002 国立歴史民俗博物館・岡崎市美術博物館「男も女も装身具」展
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
2023 MIHO MUSEUM「蒔絵百花繚乱」展
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桐花唐草蒔絵印籠 (きりはなからくさまきえいんろう)
古満寛哉(2代)作
法量 :
縦45mm×横41mm×厚16mm
製作年代 :
江戸時代後期 文政末頃 circa1830
鑑賞 :
2代古満寛哉が30代前半に作った印籠です。青金粉、赤銅粉、四分一粉を使った高蒔絵で、
桐に花唐草の丸文を表した、完成度が非常に高い傑作です。
根付には赤銅製宝尽文七宝鏡蓋根付、緒締は古渡珊瑚を取り合わせています。
意匠 :
桐に花唐草の丸文を表に2つ、裏に1つバランスよく配しています。
形状 :
昔形2段の非常に小さな印籠ですが、元来の取り合わせから見て、男性用の提物と考えられます。
技法 :
・完璧なまでに研ぎ上げられた金粉溜地に、高蒔絵です。
高蒔絵は一般的な青金粉の他に、この一派ならではの赤銅粉、四分一粉を使っています。
この場合の四分一粉は金工で使われる合金の四分一(銀1、銅3の合金)を粉にしたものです。
赤銅粉も銅に、金や銀が1〜2%程度含まれた金工で使われる赤銅を粉にしたものです。
是真や寛哉の仕事には、これらがしばしば効果的に使われます。
高蒔絵の肉取りと際の処理は非常に巧く、花の葉脈は、高蒔絵の描割にしており、隙間からは黒漆を見せています。いずれも
技術的に高度です。
・段内部は、金梨子地に仕立てられています。
作銘 :
底部下の中央に「寛哉」と蒔絵銘があります。
「寛」の字の下部の足の間隔が広い独特の書体は、2代寛哉としては非常に珍しい筆跡です。
同様の筆跡は、柴田令哉遺著『漆器図録』に採録される文政12年(1829)、33歳作の「松竹梅蒔絵三組盃」の作銘に見られます。
2代寛哉の30代前半のごく初期の作品と考えられます。同様の筆跡の銘は
「孔雀羽根蒔絵笄」(佐野美術館) にも見られます。
伝来 :
昭和4年(1929)4月8日に東京美術倶楽部で行われた『浅見家所蔵品入札』
に古満文哉作「柴舟蒔絵印籠」・原羊遊斎作「薮柑子蒔絵印籠」・飯塚桃葉「蝶蒔絵印籠」
などと併せて小印籠5点を1ロットにして出品され、440円で落札されています。
売立目録の写真のように当時は巾着と、柴田是真作「宝尽蒔絵根付」が附属し、合提となっていました。
これは幕末期の取合せのままであったと考えられます。
その後、根付と印籠のコレクター、レイモンド・ブッシェル氏の所蔵となり、
1966年のブッシェルコレクションの売立で世界一の印籠コレクター、
エドワード・A・ランガム氏の所有となりました(蔵品番号672)。
ランガム氏によって是真の根付は外されて、
現在は柴田是真作「手毬松葉蒔絵印籠」に取り合わされています。
印籠は2012年に国内に里帰りしました。
展観履歴 :
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
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古満 文哉 (こま ぶんさい) 1811〜1871
柴舟蒔絵印籠 (しばふねまきえいんろう)
古満文哉作
製作年代 :
江戸時代末期
法量 :
縦44mm×横41mm×厚15mm
鑑賞 :
本阿弥光悦作とされる「柴舟蒔絵印籠」を、初代古満寛哉の次男、古満文哉が模写した
琳派風の小振りな印籠です。
鉛、螺鈿の象嵌に平蒔絵としています。
柴田是真も同じ印籠の模作をいくつか残しています。
黒檀製楼閣彫の根付と、
珊瑚珠の緒締2つ、銀磨地に鹿片切彫の緒締、
八百善亀甲更紗の巾着が附属した合提に仕立てられています。
根付以外は昭和4年(1929)に東京美術倶楽部で行われた
の浅見家売立以来そのままの取り合わせで残っています。
意匠 :
荒れた波間に、柴を積んだ小舟、いわゆる「柴舟」が浮かぶ意匠です。
琳派にしばしば見られる意匠で、
『源氏物語』宇治十帖の「浮舟」に取材したものとも考えられます。
形状 :
小型で、ほぼ正方形の角印籠に紐通が付いた、3段の印籠です。
天地は平らになっており、琳派の印籠に見られる、独特な形状です。
技法 :
黒蝋色塗地に平蒔絵で波文を表わし、柴は鉛板を象嵌した上に付描で、
舟は厚貝の螺鈿で表しています。
印籠の段内部は、艶の無い金地に仕立てられています。
こうした金地の段内部は琳派の印籠に独特なもので、
忠実に本歌を写したものと考えられます。
作銘 :
蓋裏に「光悦作/文哉寫」と針彫銘があります。
金地の段内部で、蓋裏に針彫で銘を入れるのも、尾形光琳などの印籠に見られるものです。
本歌は無銘と考えられますが、尾形光琳の印籠銘に倣って「光悦作」と銘書したと考えられます。
伝来 :
昭和4年(1929)4月8日に東京美術倶楽部で行われた『浅見家所蔵品入札』
に古満寛哉(2代)作「桐花唐草蒔絵印籠」・原羊遊斎作「薮柑子蒔絵印籠」・飯塚桃葉「蝶蒔絵印籠」
などと併せて小印籠5点を1ロットにして出品され、440円で落札されています。
展観履歴 :
1999 五島美術館「羊遊斎」展
2019 東京富士美術館「サムライ・ダンディズム」展
製作背景 :
同趣の印籠は2代古満寛哉も作っています。
武井男爵のコレクションでしたが、現在所在不明です。
また柴田是真も全く同図の印籠を少なくとも4点は作っています。
大正7年(1918)の松澤家の売立と大正8年(1919)の籾山家の売立に出ている印籠
は共箱で、やはり「光悦寫」だったことがタイトルからわかります。
金工家、香川勝廣が所蔵していた
柴田是真作「柴舟蒔絵印籠」については、より詳細に記録があります。まず『漆器図録』
に模写図があります。そこには「本阿弥家蔵光悦作是真寫」と注記があり、
印籠の底には楕円の中に是真の銘があります。
大正6年(1917)の香川勝廣の売立目録には写真もあり、やはり共箱だったことがわかります。
おそらく「本阿弥家蔵光悦作是真寫」は共箱に書いてあるのでしょう。この印籠は現存し、
メトロポリタン美術館
に入っています。
これらのことから想像されるのは、古満寛哉(2代)・古満文哉・柴田是真の3人で本阿弥家に行き、
本阿弥光悦作と伝えられる印籠を見たのでしょう。
模写図を作り、
それぞれに翻案作品・模写作品を作ったのではないかと考えられます。
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作者について知る⇒
2007年12月 6日UP 2023年11月 3日更新
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