田村 壽秀 (たむら としひで) 1757〜1833?
護花鈴蒔絵香箱 (ごかれいまきえこうばこ)
田村壽秀作
法量 :
縦101mm×横86mm×高38mm
製作年代 : 江戸時代後期
文政2年(1819)
鑑賞 :
桜が鳥に散らされないように吊るされた護花鈴を意匠とし、
田村壽秀が得意とした研出蒔絵で表現した作品です。
製作年も判明し、数少ない印籠以外の貴重な作品です。また壽秀は国学に傾倒していましたので、
山桜と鈴を好んだ国学者、本居宣長を寓意したのかもしれません。
光格天皇は同意匠の印籠を所持しており、本作の内部や底の豪華な仕様から、
本作も光格天皇御物であった可能性もあります。
意匠 :
山桜に、桜の花を鳥に散らされないよう紐を張って鈴を吊るした護花鈴を意匠としています。
形状 :
長方形角丸、印籠蓋造の香箱で、蓋に塵居を取り、合口部に玉縁を取っています。
技法 :
・黒蝋色塗地に淡く梨子地を蒔き、山桜に鈴を研切蒔絵・研出蒔絵で表わしています。
桜の花は銀、葉は洗朱で研切蒔絵にしています。
壽秀が最も得意とした研出蒔絵で、その本領がよく顕れています。
・内部は金梨子地で、霞形に濃く蒔かれています。底部は濃梨子地です。
作銘 :
底部の左下に「六十三歳/寿秀」と朱漆で「東溪」の白文方形印があり、文政2年(1819)の制作ということが判明します。
伝来 :
長らくヨーロッパにあったようです。
護花鈴蒔絵印籠 :
2022年3月、宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官・五味聖氏が「孝明天皇ゆかりの印籠について(二)」という論文を発表されました。
孝明天皇の御宸筆になる「印籠御留」(東山御文庫蔵 勅封 第172番-2-17)について翻刻・公開されたもので、
光格天皇・仁孝天皇・孝明天皇の印籠収集がより具体的に判明しました。
光格天皇が最も好んだのが物故者である塩見政誠の作品と、その作風を好んで作った田村壽秀の作品でした。
光格天皇宸筆の写しとされる「印籠歌詠」(東山御文庫蔵 勅封 第172番-1-41)
には、
愛蔵していた田村壽秀作「護花鈴蒔絵印籠」について詠んだ天皇の和歌も残されています。
そこには
印籠 壽秀
護花鈴
吹たびに風やさそふとおどろけば/鳥こそたつな花のすゝのね
と詠まれています。本作と同趣の印籠だったのでしょう。本作もまた光格天皇の御物であった可能性が高いと考えられます。
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菊蒔絵棗
(きくまきえなつめ)
田村壽秀作 光格上皇御物
製作年代 :
江戸時代後期 文政4年(1821)
法量 :
径82mm×高60mm
鑑賞 :
黒蝋色塗地に大輪の菊をただ1つだけ高蒔絵にした印象的な作品です。共箱で、
しかも年齢・年紀が入った基準作品で、
光格上皇の所用品でもあります。京都の漆工史上、極めて重要な作品です。
意匠 :
大輪の八重菊をただ1つだけ、肩にバランスよく配置しています。
もとより菊花は皇室の御紋章でもあり、御物にふさわしい意匠です。
技法 :
黒蝋色塗地高蒔絵で表現しています。
花びらの1枚1枚を高上げして形作り、花びらの隙間を描き割りにして谷を作っています。
花芯は青金粉溜地に付描で点を打って表現しています。
棗の内側は、黒漆の真塗りで、釦は金地です。
作銘 :
底の左に「寿秀(花押)」の蒔絵銘があります。花押が入った作銘は、晩年の数点にしか見られません。
共箱 :
共箱は四方桟蓋の桐箱で、濃萌黄色の真田紐が付いています。
表書は「大海棗/菊蒔絵」とありますが、
これは見込みの広い茶器が「大海」と呼ばれているためです。
蓋見返し左下には壽秀が制作した際の「文政辛巳秋日/六十五歳/寿秀作」の墨書
と「壽秀」の白文長方形朱印があります。
右には「天保四年三月十八日/従 洞中拝領御/物之由従殿下拝棗」との墨書があって、
これは「洞中」つまり仙洞御所=光格上皇から拝領した際に拝領者が書き付けたものです。
また箱の身の見込みには「袋/ランケン裂/乱絹」との墨書があり、仕覆が襴絹であったことが分かります。
光格天皇 :
光格天皇(1771〜1840)は第119代天皇で、安永8年(1780)に即位され、
文化14年(1817)に譲位されて上皇となりました。
意外なことに、光格天皇は印籠を収集される趣味をお持ちでした。
京都は印籠の発祥地ながら、その後、武家の政権は江戸に移ったため、印籠の需要が多くありませんでした。
しかし、光格天皇が黒蝋色塗地に研出蒔絵の優美な印籠を好まれ、
宮門跡・堂上貴紳の間でも印籠が流行したため、京都でも壽秀など、印籠の名工も登場するに至りました。
光格天皇(あるいは上皇)から下賜という印籠の存在もいくつか知られています。
かつて、光格天皇から拝領という箱書きのある桐木地鶴蒔絵の印籠掛を見たことがあります。
孝明天皇は四曲の屏風状の印籠掛に数十個の印籠を掛けて叡覧されたと伝えられていますが、
光格天皇も同様だったのでしょう。
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2007年11月24日UP
2022年 4月 9日更新
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