松野 應真(まつの おうしん) 生没年未詳
流派: 古満派・石切河岸派
略歴:
幕末の江戸の印籠蒔絵師です。柴田是真の門人でしたが、
生没年すら未詳の人物で、これまで作品も全く知られていませんでした。
入門時に11歳だったことは分かっており、通常の修業期間5年を考慮して、
仮に是真から「應真」の号を授けられた弘化5年(1848)に16歳だったとすれば、
天保4年(1833)に生まれ、弘化元年(1844)に是真に入門したと考えられます。
没年も不明ですが、安政2年(1855)に是真が應真に送った書状が残っているので、
その後数年で亡くなったとすると20歳代で若くして没したと考えられます。
年齢的には、同門の池田泰真より8歳ほど若く、泰真の弟弟子になります。
江戸・神田金澤町の旅籠の長男に生まれ、松野庄次郎と称していました。
しかし実母が没して父が再婚し、継母にひどく虐待されていました。
その噂を聞いて哀れに思った柴田是真は、庄次郎を引き取り、住込みの内弟子としました。
庄次郎はそのことを恩に感じて熱心に修業し、めざましい進歩をみせました。
そこで是真は弘化5年正月20日に應真の号を与え、
後に漢学者の長井旌峨によって、名を矩、号を方斎と命名されました。
大英博物館には、是真が應真に絵手本として与えた
画巻
も現存しているので、
是真は池田泰真と同じように蒔絵だけでなく、画も教えていたとみられます。
ちなみにこの画巻には是真が應真に与えた号の免状や書状もあり、應真が大事にしていた遺品とみられます。
嘉永3年(1850)に柴田是真が鶴岡八幡宮の什宝「菊籬蒔絵螺鈿手箱」の修復に赴いた際には、
是真に連れられて、池田泰真とともに助手を勤めました。
そしておそらく安政年間に若くして病死してしまったのでしょう。将来を嘱望していた是真は我が子を失ったようにとても悲しみ、厚く法要を行ったと伝えられます。
是真は「應真」の号を、後に明治になって画の門人・高橋善之介(1855〜1901)に与え、
高橋應真と号させました。どのような経緯で与えられたのか伝えられていませんが、
遺号「應真」を与えられたとあり、何か曰くがありそうです。
若くして没したため自身銘の作品は2024年1月に出現した「梅花車蒔絵印籠」しか確認されていません。
もし他に現存していたとしても数点程度と考えられます。「梅花車蒔絵印籠」を見ると、蒔絵の技術としては若くして是真に匹敵する実力を授けられていたことが分かります。
逸話:
内弟子のまま生涯を終えて対柳居で没したように伝えられていますが、
是真から應真に送った書簡がいくつか現存しているので、独立・開業していた可能性もあります。
右の書状は、ちょうど是真が李龍眠「十六羅漢」を入手した時のようです。
それが明日にも京都から到着すると書いてあります。
是真は「十六羅漢」のことを「祭の羅漢」と書いており、入手のために家財を売り払い、
屏風講を催したり、借金の算段など、まるで祭のような騒ぎだったからでしょうか。
三聖寺の役僧が付き添って江戸に着いたのは安政2年(1855)2月と伝記にありますが、
この書状の翌日とすれば、それは2月11日だったということになります。そしてその頃までは應真は存命だったことも分かります。
いずれにしても号も与えられ、自作を作ることも許されており、次のような最初に印籠を作った時の逸話が残されています。
初めて自分で群蝶蒔絵の印籠を作って是真に見せると、
是真は出来を賞して嚢物商「丸利」に売りに行くことを許しました。
そこで應真がその印籠を「丸利」に持ち込むと、主人・江南利兵衛は出来を賞しながら、
是真の銘ではないので、2朱という非常に安い金額(1両の1/8)を提示しました。
がっかりした應真は売らずに持ち帰って是真に報告しました。
すると是真は「丸利」が高く買わなかったのはかえって良かったと言い、修業中の身でもし高く売れてしまったら、
利益のことばかり考えて、良いものを作れなくなってしまう、危ないところであった、と言いました。
それを聞いた應真は自分の浅ましい心を恥じて、2階の細工場に上がると、
鉈を振るってその印籠を打ち砕きました。そして清々しい気持ちになって、より一層製作に打ち込むようになったと伝えられます。
上図は村松梢風『名人苦心実話』
(平凡社 1929年)「柴田是真」に掲載されているこの逸話の挿絵です。
村松梢風の是真伝記は、後に『本朝画人伝』(平凡社、1933)にも採録されて、この逸話も広く知られることになります。
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